平和への祈り (2020年6月23日)

宮古島からこんにちはー

梅雨が明けて10日。
太平洋高気圧に完全に覆われ、やっと南からの強めの風も
落ち着いてきました。
これで、いよいよ本格的な夏の到来かなと感じています。
風を感じ、雲を見て、季節の変わり目を探る。
まさに大自然で生きている証拠です。

今日は「慰霊の日」
太平洋戦争で犠牲になってしまった方への追悼の日。
沖縄県民は休日になります。
平和を願い、平和を誓う。
大切な日です。

下記、少し長いですが、胸が苦しくなる記事があったので
共有(引用)したいと思います。戦争の事が書かれています。
戦争を知らない世代にも伝えて行かなければならないと思います。

1945年6月。横たわる弟が、寂しそうにこちらを見つめていた。3歳のぱっちりとした瞳。砲弾の破片が刺さった腹から血がにじんでいた。涙を流す力さえ、なかったのかもしれない。翌日か、翌々日に息を引き取るまでの顔が、今も石川仁栄さん(84)=浦添市=の脳裏に残る「遺影」だ。遺品も遺骨もない。「本当は話したくない。でも、今話しておかないと」と語り始めた。

 沖縄戦下の4月下旬ごろ。生家のあった浦添市前田から逃げた。南を目指し、現在の糸満市で家畜小屋に飛び込んだ。猛烈な弾雨の中、次から次に逃げ込んで来る人でぎゅうぎゅう詰めに。狭い小屋に丸2日は閉じ込められた。

 身を縮めるように膝を抱え込んでいた。目の前に、同じ姿で座る弟の小さな背中。その時。背後から何かが右肩、右膝をかすめた。痛いという感覚もなく途切れた記憶。気付くと、屋敷の隅の石垣の下にいた。石川さんを傷つけた破片は、そのまま弟に向かい、右脇腹をえぐっていた。

 弟の子守役は石川さんだった。こまを作って回してあげると喜んだ。最初に避難した前田の墓では軍歌を歌って聞かせた。逃げる時はおんぶしたり、手を引いたりした。避難する時もけがする時も、いつも一緒。「最期に水をあげたかった。でも、なかった」

 石川さんの記憶は、鮮明だ。ただ、当時を語る言葉は途切れ途切れ。時に沈黙を挟み、絞り出すような小さな声。戦後、家族であっても語り合うことがはばかられたことが読み取れる。

 母方のおばは、けがをした石川さんを膝枕している最中に、砲弾で頭を吹き飛ばされた。首から、血のあぶくが立った。母の頬と腕には戦後しばらく、おばの頭蓋骨の破片が入ったままだった。祖父母も妹も亡くなった。皆、振り返りたがらない過酷な逃避行だった。

 戦後75年を迎える今も、重く口を閉ざし続ける人々がいる。凄惨(せいさん)な体験を語ることができない、語り尽くせない思いを、証言とともに紡ぐ。

 石川仁栄さん(84)=浦添市=は、慰霊の日の6月23日が誕生日。年を重ねるにつれて右膝に力が入らず、階段の上り下りがつらくなった。75年前の6月、砲弾の破片がかすめた古傷のせいだ。破片は、弟も死に追いやった。「あと数センチ、位置がずれていたら、自分が死んでいたかもしれない」。痛みは、戦の記憶とともにある。

 右膝は、若い時は何でもなかった。沖縄戦を生き延びた戦後、高校を卒業して故郷の浦添村役場(現浦添市)で働いた。結婚して、一軒家を建て、子宝にも恵まれた。

 「戦争で何もかもが壊された無の状態から生活を築き上げないといけなかった。目の前のことで懸命だった」

 沖縄戦のことを振り返るようになったのは退職してから。1995年にできた平和の礎(糸満市)に、弟の名前が刻まれているのは、当然知っていた。ただ、行けなかった。「名前を見るだけでも、感情があふれて絶対に耐えきれないと思った」という。

 初めて訪れることができたのは、2014年6月23日。仁栄さんが79歳になった日でもあった。誘ってくれた友人と離れ、一人で弟の名前と向き合った。

 石川仁吉。「ようやく、会いに来たよ」。語り掛けた先の刻銘に、魂が宿っているような気がした。

 今でも、取材などで弟の話をすると、さびしげな色をたたえた卵形の顔や大きな瞳が「夜、寝床に入ると2、3カ月は頭に浮かぶ」という。

 元気な間に、体験記を書こうと何度も試みた。が、記憶の過酷さが途中で筆を止まらせる。弟の死のほかにも、まだ語れずに、心にふたをする記憶がある。「生きている間には触れられない。墓場まで持っていく以外、ないのかもしれない」。ことし85歳を迎える慰霊の日。「誕生日というより、亡くなった人を思い出す日」と語った。

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